心の日記

京都在住なので京都のネタを書く。

ストレス社会と絶望の世界

世の中の多くの人はストレスをため込んでいます。それは会社で働いている現役世代はもちろん、ニート、そして高齢者・・・・それぞれに社会からの違うしわ寄せがあるだけではなく、感覚がまるで違い、お互いを理解することが出来ずに日々衝突しています。

高齢者は時代錯誤の犠牲者

 高齢者はいわゆる団塊世代と呼ばれる人たちです。団塊世代は高度経済成長真っ只中の恩恵を受け、なんでもうまくいってしまう世の中で若い時間を過ごしてきました。この人たちが新入社員として会社に所属する時には、現代と違い会社が個人を育てる風潮があり、新入社員はたくさんかわいがられました。また、年功序列のため会社を首になることもそうそうなく、レールの上を走ればすべてがうまくいきました。その結果、現在老人となった彼らは、若者に「なんでお前らには夢はないのか。」 といった発言をしたり、世の中の多様化についてこれず、いきなり不満が爆発するといった傾向に陥ってしまうのです。

ニートは社会に絶望させられた犠牲者

 社会生活には一定の「能力」が求められます。それは「同調」というものです。学校生活も社会活動もバランスというものが求められます。しかし、中にはアンバランスも存在します。ある能力が突出しているが、ほかは平均以下といった人は、この突出している場所を杭で撃たれてしまいます。その結果、彼らは自信を無くし、心を閉ざし、社会から離脱してしまうのです。

 

働く人々は思考停止の犠牲者

 働く人々はマニュアル通りに動かなくてはならず、少しでもマニュアルからずれればそれこそ出る杭は打たれる状態になります。毎日やりたくない仕事を金のために行い、勤務時間以外は会社の人との付き合いに時間を割かれ、帰ってみるともう夜遅く、「明日も仕事だから早く寝なきゃ・・・」・・・・・。一人で考える時間は全くありません。人間は考えるから成長の可能があるのです。時間を会社にすべて奪われ、完全に思考が停止してしまい、それにすら気付いていない人たちはまさしく犠牲者と呼ぶにふさわしいです。

これらの人からすれば、高齢者やニートはまさしく敵です。高齢者のためにたくさんの税を納めなければならず、ニートは同年代にもかかわらず楽しているように見えるため、本当に憎らしくて仕方ないです。

 

 

 

ストレスが潜在化している

昭和時代は平成よりも人間らしく、人と人との心のつながりが強固なものになっていました。現代ではどうでしょうか。インターネットが発達したことで、人と会わなくともコミュニケーションができるようになりました。そして、徐々に人前で意見を言う力が弱くなり、面と向かって言うことが出来なくなりました。そしてインターネットを形成した社会は、より複雑になり、人々に余計な選択肢まで考慮させるようになりました。当然人々はストレスを抱え、何らかの形でストレスを発散しようとしますが、インターネッでは規制が強まり、人々が一時の意見に流されやすくなったためそう簡単に発散することはできず、ものを消費することでストレスを回避しようとします。しかし、それだけでは満たされず、場合によっては犯罪行為に走ってしまうのです。

 

私が世の中に絶望した話

たった一つの居酒屋のバイトでした。ほんとに小さなものでした。しかし、そこでは毎日のように激務に追われながらも、私元気ですよアピールをする人たち。仕事ができないのに命令してくる人たち、みんな楽しくないはずなのに楽しそうにしている飲み会、そして本当は嫌いなはずなのに立場上仲良くしなければいけない人・・・・・・

書いていたらきりがありません。みんな自分のためだけに仕事をしているはずなのに表面上協力関係を装い、さぞ自分たちの友情は固いと言わんばかりに肩を抱き合う姿を見て、私は心のつながりのもろさと社会の残酷さに絶望し、私はストレスの源となる社会から離脱しました。

しかし、私はあきらめません。お互いに蔑み合い、喧嘩し続けるこのストレス社会でも、社会に抗い、死に物狂いで自分を探し続けている人たちに巡り合うことを。