前向きの憂鬱

京都在住。ふとした激動を大事に。観光シーズンには観光地の紹介もします。

清水寺の歴史

現在改装中の清水寺は798年に征夷大将軍坂上田村麻呂がこの音羽山に建設したものです。平安時代初期、平安京に遷都を終えた桓武天皇は東北の蝦夷を平定するために三度にわたり、大軍を送り込みました。先の二度蝦夷に大敗し、三度目の遠征でようやく平定することが出来たときの大将こそ、この坂上田村麻呂なのです。

蝦夷(えみし)について

 実は蝦夷の定義は非常にあいまいなものであり明確に定義できないらしく、ここでは和朝廷時代から見た異民族と定義して書きます。奈良時代大和朝廷が成立した時から、「中央から見て劣ったもの」の意味の蝦夷と呼んで軽蔑したそうです。当時の蝦夷は、多数の小さな集団をさしていたものであり、一つの中央集権的な国家というものではありませんでした。そのため友好的な蝦夷もいたそうです。蝦夷はもともと関東などにも広く住んでいましたが、やがて朝廷の圧力により徐々に北へと追いやられていきます。

 ちなみに現在蝦夷に一番近い存在はアイヌという北方民族であることから最近まで蝦夷は滅ぶことなく存続していたらしいです。そのほかにも平安時代に東北地方から稲作の跡が見つかったことから蝦夷は単一の文化を持ち合わせていなかったというのが通説です。

三度の遠征について

始まりは774年に朝廷の支配強化に抵抗するために反乱を起こしたことが始まりとされています。この時は伊治砦麻呂(これはるのあざまろ)の協力により一時鎮圧しますが、780年にその砦麻呂の反乱により朝廷が大きな打撃をこうむることとなります。

その後789年、紀古佐美征夷将軍に任命され、蝦夷を平定するために10万もの大軍を率いて東北を責めますが蝦夷の奇襲に合い、大敗を喫します。

そして、801年に坂上田村麻呂征夷大将軍として蝦夷相手優勢な戦いを見せ、蝦夷側の降伏を呑んで平定に至ります。

阿弖流為の処刑

 その後田村麻呂は、蝦夷の指導者阿弖流為(あてるい)の助命を進言するべく彼らと平安京に帰還します。しかし、当時の群臣は阿弖流為の再度反乱の可能性を考慮すべきと強く反対しました。結局阿弖流為は翌年河内国(現在の大阪府東部)で処刑され、田村麻呂の願いは届きませんでした。

田村麻呂は阿弖流為の命を助けてやれなかったことに対する罪の意識から805年に現在の音羽の滝のそばに仏堂を立て、翌年には天皇から本堂を賜ったことが清水寺の始まりとされています。

清水寺の真の意図

田村麻呂は戦功によって官職を与えたり、公民身分を与え、身分差別を解消するといった措置を取り、蝦夷を誠実に扱った人物として彼らから大きな信頼を得ていました。このように人種関係なく人に真心を示す田村麻呂の人格から、阿弖流為の供養はもちろんのこと蝦夷の人々の飛躍を願う意味も込められていると思います。また、当時は怨霊が盛んに信じられていた時代であり、蝦夷の怨霊たちを食い止める意味もこの清水寺にはあったのではないのでしょうか。

いずれにせよ坂上田村麻呂が人格者であることから人を思う気持ちがこの清水寺を建立させたのではないのでしょうか。東山観光地の終着点である清水寺、舞台や景色もそうですが坂上田村麻呂の真心が人々を引き付けているのかもしれません。

 

 

清水寺の観光情報

音羽山 清水寺