心の日記

京都在住なので京都のネタを書く。

菅原道真ゆかりの地~北野天満宮~

 

 北野天満宮は947年にに創設され、平安時代に学者、政治家として活躍した菅原道真公を祭られており、学問の神様としてあがめられています。

春になると梅の花が一面に咲き誇る梅林園、秋には豊臣秀吉により造園された史跡、御土居の紅葉が有名です。

 

菅原道真について

菅原道真は幼少期に学問の才能を早くも発揮し、神童としてその名をはせました。道真公はその後も順調に勉学を向上させ、当時は学者として最高位の文章博士(もんじょううはかせ)となりました。道真はそれだけではなく、弓矢を百発百中させるなど武道でもその才を発揮しました。

やがて政界に進出した道真は、京都から讃岐国に赴任するようお達しを受けます。当時讃岐国は、食べ物の不足などで民の疲弊が深刻な問題でしたが、道真はこれを善政によって見事に立て直し、民に慕われる存在となりました。

その後京都に戻った道真は。遣唐使の廃止を強く勧め、のちの国風文化の開花に大きな影響を与えるきっかけとなりました。

これらの功績が認められ、醍醐天皇によって道真は政治の決定に大きく関係する右大臣の役を仰せつかることとなります。しかし、当時の左大臣藤原時平は道真の才能に対する嫉妬と藤原家を脅かす脅威として、道真を左遷するための謀略を企てます。その結果、道真は太宰府に左遷されてしまい、十分な衣服も身にまとえないまま厳しい生活を強いられることとなります。それでも道真は国家と民の安泰、そして自分の無実をひたすらに祈り続けました。

しかし、903年2月25日に道真はその生涯を閉じることとなり、京都に帰ることはありませんでした。

 

道真の怨霊復讐伝説

道真の死から四年後、太宰府左遷の藤原菅根がなくなったことから始まります。この時はまだ道真の怨霊がうわさされるだけでしたが、その後道真左遷を謀った張本人、藤原時平が血を吐いて倒れ、薬や祈祷も効果がなく帰らぬ人となりました。

しかしこれだけでは終わらず、時平の子孫たちが病気などで相次いで死に、やがて魔の手は太宰府左遷の最終決定をした醍醐天皇の領域にまで及びます。923年に醍醐天皇の皇太子を病気で命を奪い、930年には清涼殿に落雷を起こし、多数の死傷者を出しました。そしてこの事件をきっかけに、醍醐天皇は病床に伏してしまい、そのまま帰らぬ人となりました。日本史上最恐の怨霊は、理不尽な仕打ちを受けると与えた人物や身の回りにそれ相応の復讐を行うということを世の中に知らしめたのです。

その後939年、平将門が新皇の儀式をした際、道真の怨霊が現れて都にけしかけさせるなど執念深い一面を見せ続けましたが、人々の怨霊に対する意識が確立していく中で徐々に薄くなりました。

その後942年に道真は学問の神様として北野天神社に祭られ、現在は天神様の愛称で親しまれています。

北野天満宮は道真が祭られた最初の神社であり、受験シーズンになると多くの受験生でにぎわいます。

 

 北野天満宮の社はたびたび火災にあい、それでも何度か修繕され、現在の建物は豊臣秀吉が1607年に改築したものです。拝殿は八棟造と呼ばれ、神社建築の貴重な遺産の端掛けとなっているため、国宝に指定されています。

毎月25日にライトアップされる北野天満宮の本殿は、桃山建築の豪華な金、そして極彩色が幻想的に浮かび上がり、多くの訪問客を魅了します。京都に観光に来た際は、梅園や紅葉とともに見ることをお勧めします。 

 

 

御土居の紅葉について
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