心の日記

京都在住なので京都のネタを書く。

神社で願い事をする信仰心厚い人

信仰心とはいったい何なのでしょうか?

私は様々な京都の寺社仏閣を回り、本堂に祭られている仏像、そして日本神話に出てくる神に対して手を合わせてきましたが、最近本当に心を込めてお参りしているのかと思うようになりました。というのも本堂の前で適当にお賽銭を入れ、適当に手を合わせ、さっそうとお寺から去る私の観光スタイルは、本当に信仰心があるのかということです。

 

 

信仰心はみじんもない

思い返した結果、信仰心はみじんもありませんでした。神や仏なんかは所詮昔の人がつくったこじつけであり、科学が発展した現代にそんなものを信仰する方が馬鹿らしいです。ですからあんなに神社で祈るように永遠と拝み倒す高齢者を見て、「何やっているんだこいつらは馬鹿じゃないの(笑)」と思っていました。

人気のある神社に行くと後ろが並んでいるにもかかわらず、何分もお参りする人がいます。横によけてくださる人が大半ですが、それからまだお祈りする人もいます。その人を見てみると、まるでこれからの人生を神様にゆだねるから私を助けてくださいと言わんばかりのお参りの仕方なのです。

私は明らかにおかしい人だと思いました。神様が助けてくれる根拠もないのに、そんな実在するかもわからない架空の存在にすがる馬鹿な人だと思いました。しかし、本当に信仰心厚い人はそこまでして神に救いを求めるのでしょうか。

人間には今あることしか認識できない

現実人は今知っていることしか認識することが出来ません。当然です。人は学習しなければ何も得られない生き物なのです。そして学習したとしても過去の本当のことを正確に知ることはできません。私は現在21歳ですが、今の小学生、中学生が習っている歴史は私が同年の頃に習ったものと大きく違うものとなっています。つまり人間は今ある知識、物体、そして経験ものごとの判断を下すしかないのです。また、今知っていることが事実ではないとしたら、今まで嘘を真実としてインプットしていたということになります。こんなばからしい話はないです。

昔の人が本当に神様を信仰していたというのも、もしかしたら過去の人物によって真実のように見せられた嘘かもしれません。今の時代、技術が発達したからこそ証拠の改ざんや文書の改ざんが報道されたりしていますが、そんなものが存在しないはるか昔、人間の本質が変わることがないため、改ざんが当たり前だったのは目に見えます。つまり、事実に一番近い歴史でさえ嘘の可能性が高いのにも関わらず、その歴史の中で作られた神や仏を本気で信じるのはあほらしくて仕方ないです。

 

神社で願い事をしたら願いがかなったは大嘘

これは本当に一番あり得ない話です。叶うことはありません。もし神社に行って願いごとが叶うのだとしたら、誰でも願いが叶って幸せになっているはずです。

にもかかわらずほとんどの人は願い事はかないません。もし願い事が変わったのだとしたらその願い事が無意識に行動に結びつき、結果につながっただけです。

例えば神社で恋愛成就に効果がある神様にお願いをした数日後、ある異性と運命的な出会いを果たし、そのままゴールインしたとします。しかし、これは縁結びの神様に本気でお願いしたことで、素晴らしい異性出会うための雰囲気づくりや行動が無意識にできた結果です。始めから神様という、いるかいないかもわからない存在を信じ込み、それが無意識に行動に結びつき結果となったが、それを自分が変わったとは認識せず、神様のおかげという錯覚を起こします。まったくもって滑稽です。

 

信仰心の恐ろしさ

こういう人たちは単調な理由であらゆることを信用します。ありもしない儲け話やいかにも怪しい新興宗教を信じるのです。また、身内で誰かが自殺などの縁起がないことで亡くなった人も、信仰心が厚ければ、気が狂ったように宗教に救いを求めるようになります。その結果、詐欺にあって人生を棒に振ったり、うつ病になったりして、人生の最後を迎えるのです。

詐欺はありもしないことをホントのように見せかけることで金をむしり取ります。一方神社やお寺も交通安全や受験祈願など適当な理由をこじつけてお守りを売ります。そして、信仰心の厚い人たちはそれを何のためらいもなく買います。

はっきり言ってお守りなんて何の意味もありません。私も高校受験の時に、地元の神社で受験祈願のお守りを買いました。高校は見事合格しましたが、よく考えてみると常に合格点数よりもはるかにいい点を模擬試験でとることはできてましたし、必然でした。

 

話がそれましたが、歴史は詐欺と共通するものがあります。それは平気でうそをつくということです。先ほども言いましたが過去に正しいとされている歴史は書き換えられているものが少なくありません。その広大な嘘のフィールドの一部にしか過ぎない時代の神や仏を信じるということは、まさしく詐欺にあっているのと同じことです。

 

 

軽い気持ちでお参りをすることは私は別に反対していません。私自身、神社で賽銭を入れてお参りすることは人の私有地に勝手に入る罪悪感と最低限の礼儀としてこの行為を行っていますし、観光気分で行くにはむしろ皆さんにどんどん観光してもらいたいです。

しかし、度が過ぎてしまうと薬物依存と変わらず、いずれ後悔するということです。

 

 

 

 

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