前向きの憂鬱

京都在住。ふとした激動を大事に。観光シーズンには観光地の紹介もします。

京都城南宮のしだれ梅を見てきました 

京都の伏見区竹田にはしだれ梅で有名な城南宮があります。しだれ梅は普通の梅と違い花が大きくつぼみの数が多い。そして桜よりも色が濃いため、見栄えするところです。

枝が一本一本大きく、装飾品のような完璧な仕上がりは今まで見たことがない光景でした。

余りにも美しすぎてシャボン玉が飛んでいるかのように見えます。

城南宮は外国人観光客も少なく、梅の名所が少ないため時期がずれており、交通の便もよくないため観光客が少ない京都の隠れた名所です。

城南宮の梅は二月の後半~三月初旬ですので皆さんもぜひいらしてはいかかでしょうか。

 

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北野天満宮の梅苑~物思いに吹ける~

春は憂鬱です。新しい門出にぴったりの陽気に心地よい風。そして花や動植物の目覚め。すべてが目を覚まし、人も活気に包まれます。

梅は二月の上旬に芽吹き、春の訪れを表します。この瞬間、私は毎年のように繰り返す変わらない一年に絶望します。また今年も生きなければならないのかと思うこともあります。

ですがその一方で、また今年も生きることが出来たと思うこともあります。毎日毎日当たり障りのない日々を送っても、それが積み重なっていかされていることを自覚します。

シャボン玉の花を見たときに思います。人間も80年という長めの命を生きているが、地球の歴史からするとそれこそシャボン玉のようにはかない存在であることを。そう思うと、今世の中で起こっている悪事や争いも所詮はばかばかしいものであると思うのです。

そんなはかない存在であるにもかかわらず、春は残酷なほどにも私たちの存在を連想させます。本当は思い起こしたくなんかありません。いっそ滅びればいいとも思っています。

それでも人間というものはよくできていて、勝手に思い出すようにできています。そして五¥思い出すたびに生きようと思います。

梅の花は桜の前座です。咲く時期も短く、すぐに散っていしまいます。しかし、春というものはこの梅を見て心を整理するものだと思います。興味がある方は北野天満宮の梅苑にお越しください。

観光都市京都の住民が不幸になっている!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

京都に住んでて思うのは間違いなく京都は住みずらいことです。観光客は正直邪魔であり町は狭く繁華街は人でごった返し、交通も常に人の波が切れず家賃物価は高く車は走りずらい。まったくもって住みずらい場所です。正直神社やお寺が好きでなければ京都で住む意味はまったくないと思っています。

 

 

四月や十一月になると京都には東京並みの人であふれかえります。しかもそのほとんどが娯楽を求めてやってきている人たちなので羽目を外したり、通常とは違う気分で京都を徘徊します。すると京都に住んでいる人にとっては毎日を繰り返している土壌を荒らしに来ているだけの気質も違う人たちなので当然不愉快に思うわけです。

しかし、多数派は観光客です。我々がどういおうと彼らの優位性は日本そして世界が保証しているわけですしそれで京都が成り立っているわけですから受け入れざる負えないわけです。このようにして観光客が増えると同時に住民は違う空気を強制的に吸わされ、不幸になっているということです。

しかし、どうすることもできません。今我々がやるべきことはあきらめてそれを受け入れるか、潔く京都から引っ越すかの二択です。ほとんどの人は後者を選択するべきです。正直京都に住んでいて生活面で恩恵を受けることはあまりないです。

インフルエンザを初めて自然治癒した

以前下鴨神社に行って熱が出たという話をしました。

 

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その後病院に行きましたが見事にインフルエンザという診断を受けてきました。まったく、、、参拝後のこの仕打ちときたらもうひどいとしか言いようがありません。しかし、この後それを打ち消すかのようなことがありました。

 

それは、夜のことです。その日は食欲もなく、体も重かったため、昼くらいに寝落ちしていまい、処方箋を飲み忘れてしまいました。そして起きたのが次の日の午前三時だったのですが、起きた瞬間にしまったと思いながらもなぜか体が軽くなっていることにき気づき、熱を測ってみると

熱が下がっていました。しかもインフルエンザ特有の倦怠感もなくなっていたのです。見事に自然治癒しました。今までは薬を飲んでも最低三日は疲れが残るのに薬も飲まずにここまで回復してしまったことなど自分の中では前例がありません。もしかして下鴨神社に行ってインフルエンザに罹ったのだとしてらそれは不運ではないのでは、、、、、

インフルエンザにかかった当初は不運だといいましたが今では体から毒を出すための効能の一連だと考えれば納得がいきます。恐らく合わない神社に行って正当な加護を受けられなかったことが体に悪い影響を及ぼしたのだと考えられます。一番考えられるのが伏見稲荷です。過去に5回行きましたが、必ず財布や携帯を落としたり、帰りの電車が遅れることがありました。神社にはその人に合う合わないがあるようですから、初詣に伏見稲荷に行くのは私はやめることにしました。

 

 

 

 

理想と現実~清明神社~


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人間というものはいつも理想と現実の乖離が激しい。しかも多くの人々がその事実に気付いていないことが多い。

特に人間は力というものにはものすごく反応する。力は自分が持っているものより大きく見せたいというのが人間に願望であり、それは見えないものほど誇張したくなるものである。

安倍晴明も映画では華やかな呪術を使って様々な怨霊や敵と戦うシーンが描写されているが実際はそんな目立つ存在ではなかった。

確かに安倍晴明陰陽師として天文学を駆使し、藤原道長から信頼されるほどの実力を持っていた。その頭の良さから様々な官職にも抜擢され、要所で活躍したことも歴史で明らかにされている。しかし、安倍晴明は現実そこまで注目を浴びるほどの人物ではなくかなり地味あり、陰陽師の逸話も当時彼らの力が大きかったためと推測することもできる。人々の前世や予言、結界、呪術からの守護など、、、、、

 

それは現代では超能力のような描写として映画、そしてゲームに表れている。本来注目されるほどの人物でなかったにも関わらずなぜここまでのカリスマ性を持つようになったのかを私なりに考えてみた。

科学の発達によって現代では呪術の持つ意味はほとんど失われている。それは時代が進むにつれてさらに加速していくに違いない。しかし、本当にそうであろうか。おそらく安倍晴明のカリスマ性は、陰陽師という人の心を安堵させる職業からきているものだと思う。病気になったときに祈祷をするのは、人に直すという意識を持たせるためであり現代でも精神力で寿命を延ばす人は少なくない。天候回復も天文学的推察からそのタイミングで祈祷を行うことで人々を安堵させることだと思う。つまり、陰陽師の精神とは、自分たちが人に安心感を与えさせることが第一でありそのために呪術といわれるものを使っていたのではないかと考えられる。そう考えれば安倍晴明の精神が今になっても人々の心に生き続けていることに納得がいき、そのカリスマ性もいなずけるところである。

現代でこそ魔法使いのような扱いを受けている安倍晴明だが、この人物が行っていたことが誠かインチキかといえば本質的には本物であることは間違いない。安倍晴明がどのような性格だったかでは知らないが、彼がどのような理由であれ、陰陽師として活躍していたことは捨てがたい事実であり、それは尊敬されることであると私は思う。

もし安倍晴明に興味がある人はこの清明神社に立ち寄ってほしい。様々なゆかりをうかがうことが出来る。

 

 

 

 

私は京都バスが嫌いだ

私はバスが嫌いだ。特に京都のバスは一番嫌いだ。しかし、京都で観光するためにはバスは必要不可欠であり、使わないということは自分で自分の首を絞めることとなる。

京都のバスは日本で一番利用客が多く、たくさんの路線が通っており、とりあえずバスに乗っておけば目的地についてしまうなんてこともある。しかも一律230円で広い京都市内を観光でき、一日乗車券などで乗り放題にすることもできる。京都ほどの観光都市で交通バスが発達していると必然的に車を使わなくなり、自分の足で歩いたほうが効率がいいという考えになる。

しかし、バスというものは人々を一瞬で不幸に陥れる。それは時間帯がどうであれ、人々を不幸にするのだ。特に京都のバスは・・・・・

 

京都のバスを利用するのは観光客が多い。これらの人たちは様々な地域から訪れている。同じ日本人といっても違う気質を持っているため、何か合わないと気を遣うことになるのだ。また厄介なのはそこに外国人が絡んでくることだ。まったく違う遺伝子、文化で育った人間に逆に気を使わなければいけないということもある。最近でこそ減ったが、中国人のバスの中で話す大声はまことに迷惑なのだがそれを注意せずに空気を読み取れをという日本人の気質が通用しないことは、どうしようもないことである。しかも電車と違いあの密閉空間では余計矛盾が心の中に生じるのである。

 

 

 

 

私はバスで老人とケンカをしたことがある。京都の大原行のバスはそれはとんでもない人の数でさしずめ状態だった。すると私の右隣の老人が急に「押すな!」と怒鳴ってきたのだ。確かに私は何度かバスに揺られて老人を押してしまったのかもしれないが、そんなことはいくらでもあるし、周りを見て状況判断をすれば許容できる範囲のはずである。しかし、バスは判断能力を鈍らせ、普段なら怒らないことでもカッとさせてしまう恐ろしさがある。この老人もバスでストレスをため続け、最後に自分が無意識に当たったことを許容できなかったのだろう。

 

それでも京都はバスを使わないといけない観光地が数多く存在する。京都でできるだけ多くの観光を楽しむなら必然的にバスを使わなくてはならない。しかし、正直観光地で楽しめたとしても、バスの劣悪な環境で心を汚染されると楽しさは相殺される。

京都という町は魅力的だ。事実1100年もの歴史が如実に再現されている町など世界でもそうなく、さらに日本にしかない景観が人を釘付けにする。しかし、観光都市で人が増えると、リフレッシュの名目はマイナスに働きやすい。京都バスはまさにその象徴である。

 

 

 

何度でも死ぬことが出来る

 

京都の象徴鴨川、今日も何も変わらす、そして私はこの場所で一回死んでから生き返る。私は憂鬱になるとこの場所に来ることにしています。出町柳の鴨川デルタ~四条河原町まで変わらない景観を歩くのだ。

変わらない景観というのは必ずしも景色のことだけではない。景観とはその場所の「空気」もさしているのだ。ここで会う「空気」とは幾千の時を重ね、「人の思いが積み重ねられた歴史」のことを指す。現代になって私たちがなんとなく「落ち着く」・「居心地がいい」といわれている場所ほど、「心が綺麗な人々が過ごした場所」なのである。

私はサークルも辞め、ゼミも辞め、そしてバイトも辞め、ついに一人となってしまった時、自分の人付き合いの下手さに絶望し、一瞬死ぬことを考えた時期があった。本当に絶望したのだ。誰に対しても笑顔で、分け隔てなく接し誰からもそれなりに好かれる人が影でひとの悪口をいい、仲間を蹴落とす姿を幾度となく見てきた。自分の立場を利用して好き勝手にふるまう人も何度も見た。こんな腐った世の中で生きている自分を嫌悪した。

そんな時にたどり着いたのがこの鴨川である。おそらく汚れきった心を浄化するために必然的に訪れたのであろう。いや浄化というよりは心の交換といった方がいいかもしれない。

心の交換は急に行われるものではない。時間をかけて徐々に、部品交換のように行われていく。人間の心というものは一つしかなく、それを洗うことが出来ないと絶望から無になってしまう。魔法少女まどか☆マギカソウルジェムのように。

日が傾き始めた三条河原町の景色。約30分の蘇生で私は一度死に、生まれ変わった。新たな自分となった初めての景色は、それはまた絶景である。人が行きかう橋の風情は、どこか落ち着きを求める人で溢れている。そんな人たちを見ながら、私は優しい面持ちを見届けた。

絶望したところで私たちは何度も死ぬことが出来る。そして生まれ変わり、より頑丈な鉄心を構築する。長年にわたり、色々な思惑が交差し、人々の叫びが訴えかけるこの場所をあるかずして、京都を体感したというのは愚かである。