心の日記

京都在住なので京都のネタを書く。

観光都市京都の住民が不幸になっている!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

京都に住んでて思うのは間違いなく京都は住みずらいことです。観光客は正直邪魔であり町は狭く繁華街は人でごった返し、交通も常に人の波が切れず家賃物価は高く車は走りずらい。まったくもって住みずらい場所です。正直神社やお寺が好きでなければ京都で住む意味はまったくないと思っています。

 

 

四月や十一月になると京都には東京並みの人であふれかえります。しかもそのほとんどが娯楽を求めてやってきている人たちなので羽目を外したり、通常とは違う気分で京都を徘徊します。すると京都に住んでいる人にとっては毎日を繰り返している土壌を荒らしに来ているだけの気質も違う人たちなので当然不愉快に思うわけです。

しかし、多数派は観光客です。我々がどういおうと彼らの優位性は日本そして世界が保証しているわけですしそれで京都が成り立っているわけですから受け入れざる負えないわけです。このようにして観光客が増えると同時に住民は違う空気を強制的に吸わされ、不幸になっているということです。

しかし、どうすることもできません。今我々がやるべきことはあきらめてそれを受け入れるか、潔く京都から引っ越すかの二択です。ほとんどの人は後者を選択するべきです。正直京都に住んでいて生活面で恩恵を受けることはあまりないです。

インフルエンザを初めて自然治癒した

以前下鴨神社に行って熱が出たという話をしました。

 

blog.gorihisa.net

 

その後病院に行きましたが見事にインフルエンザという診断を受けてきました。まったく、、、参拝後のこの仕打ちときたらもうひどいとしか言いようがありません。しかし、この後それを打ち消すかのようなことがありました。

 

それは、夜のことです。その日は食欲もなく、体も重かったため、昼くらいに寝落ちしていまい、処方箋を飲み忘れてしまいました。そして起きたのが次の日の午前三時だったのですが、起きた瞬間にしまったと思いながらもなぜか体が軽くなっていることにき気づき、熱を測ってみると

熱が下がっていました。しかもインフルエンザ特有の倦怠感もなくなっていたのです。見事に自然治癒しました。今までは薬を飲んでも最低三日は疲れが残るのに薬も飲まずにここまで回復してしまったことなど自分の中では前例がありません。もしかして下鴨神社に行ってインフルエンザに罹ったのだとしてらそれは不運ではないのでは、、、、、

インフルエンザにかかった当初は不運だといいましたが今では体から毒を出すための効能の一連だと考えれば納得がいきます。恐らく合わない神社に行って正当な加護を受けられなかったことが体に悪い影響を及ぼしたのだと考えられます。一番考えられるのが伏見稲荷です。過去に5回行きましたが、必ず財布や携帯を落としたり、帰りの電車が遅れることがありました。神社にはその人に合う合わないがあるようですから、初詣に伏見稲荷に行くのは私はやめることにしました。

 

 

 

 

理想と現実~清明神社~


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人間というものはいつも理想と現実の乖離が激しい。しかも多くの人々がその事実に気付いていないことが多い。

特に人間は力というものにはものすごく反応する。力は自分が持っているものより大きく見せたいというのが人間に願望であり、それは見えないものほど誇張したくなるものである。

安倍晴明も映画では華やかな呪術を使って様々な怨霊や敵と戦うシーンが描写されているが実際はそんな目立つ存在ではなかった。

確かに安倍晴明陰陽師として天文学を駆使し、藤原道長から信頼されるほどの実力を持っていた。その頭の良さから様々な官職にも抜擢され、要所で活躍したことも歴史で明らかにされている。しかし、安倍晴明は現実そこまで注目を浴びるほどの人物ではなくかなり地味あり、陰陽師の逸話も当時彼らの力が大きかったためと推測することもできる。人々の前世や予言、結界、呪術からの守護など、、、、、

 

それは現代では超能力のような描写として映画、そしてゲームに表れている。本来注目されるほどの人物でなかったにも関わらずなぜここまでのカリスマ性を持つようになったのかを私なりに考えてみた。

科学の発達によって現代では呪術の持つ意味はほとんど失われている。それは時代が進むにつれてさらに加速していくに違いない。しかし、本当にそうであろうか。おそらく安倍晴明のカリスマ性は、陰陽師という人の心を安堵させる職業からきているものだと思う。病気になったときに祈祷をするのは、人に直すという意識を持たせるためであり現代でも精神力で寿命を延ばす人は少なくない。天候回復も天文学的推察からそのタイミングで祈祷を行うことで人々を安堵させることだと思う。つまり、陰陽師の精神とは、自分たちが人に安心感を与えさせることが第一でありそのために呪術といわれるものを使っていたのではないかと考えられる。そう考えれば安倍晴明の精神が今になっても人々の心に生き続けていることに納得がいき、そのカリスマ性もいなずけるところである。

現代でこそ魔法使いのような扱いを受けている安倍晴明だが、この人物が行っていたことが誠かインチキかといえば本質的には本物であることは間違いない。安倍晴明がどのような性格だったかでは知らないが、彼がどのような理由であれ、陰陽師として活躍していたことは捨てがたい事実であり、それは尊敬されることであると私は思う。

もし安倍晴明に興味がある人はこの清明神社に立ち寄ってほしい。様々なゆかりをうかがうことが出来る。

 

 

 

 

私は京都バスが嫌いだ

私はバスが嫌いだ。特に京都のバスは一番嫌いだ。しかし、京都で観光するためにはバスは必要不可欠であり、使わないということは自分で自分の首を絞めることとなる。

京都のバスは日本で一番利用客が多く、たくさんの路線が通っており、とりあえずバスに乗っておけば目的地についてしまうなんてこともある。しかも一律230円で広い京都市内を観光でき、一日乗車券などで乗り放題にすることもできる。京都ほどの観光都市で交通バスが発達していると必然的に車を使わなくなり、自分の足で歩いたほうが効率がいいという考えになる。

しかし、バスというものは人々を一瞬で不幸に陥れる。それは時間帯がどうであれ、人々を不幸にするのだ。特に京都のバスは・・・・・

 

京都のバスを利用するのは観光客が多い。これらの人たちは様々な地域から訪れている。同じ日本人といっても違う気質を持っているため、何か合わないと気を遣うことになるのだ。また厄介なのはそこに外国人が絡んでくることだ。まったく違う遺伝子、文化で育った人間に逆に気を使わなければいけないということもある。最近でこそ減ったが、中国人のバスの中で話す大声はまことに迷惑なのだがそれを注意せずに空気を読み取れをという日本人の気質が通用しないことは、どうしようもないことである。しかも電車と違いあの密閉空間では余計矛盾が心の中に生じるのである。

 

 

 

 

私はバスで老人とケンカをしたことがある。京都の大原行のバスはそれはとんでもない人の数でさしずめ状態だった。すると私の右隣の老人が急に「押すな!」と怒鳴ってきたのだ。確かに私は何度かバスに揺られて老人を押してしまったのかもしれないが、そんなことはいくらでもあるし、周りを見て状況判断をすれば許容できる範囲のはずである。しかし、バスは判断能力を鈍らせ、普段なら怒らないことでもカッとさせてしまう恐ろしさがある。この老人もバスでストレスをため続け、最後に自分が無意識に当たったことを許容できなかったのだろう。

 

それでも京都はバスを使わないといけない観光地が数多く存在する。京都でできるだけ多くの観光を楽しむなら必然的にバスを使わなくてはならない。しかし、正直観光地で楽しめたとしても、バスの劣悪な環境で心を汚染されると楽しさは相殺される。

京都という町は魅力的だ。事実1100年もの歴史が如実に再現されている町など世界でもそうなく、さらに日本にしかない景観が人を釘付けにする。しかし、観光都市で人が増えると、リフレッシュの名目はマイナスに働きやすい。京都バスはまさにその象徴である。

 

 

 

何度でも死ぬことが出来る

 

京都の象徴鴨川、今日も何も変わらす、そして私はこの場所で一回死んでから生き返る。私は憂鬱になるとこの場所に来ることにしています。出町柳の鴨川デルタ~四条河原町まで変わらない景観を歩くのだ。

変わらない景観というのは必ずしも景色のことだけではない。景観とはその場所の「空気」もさしているのだ。ここで会う「空気」とは幾千の時を重ね、「人の思いが積み重ねられた歴史」のことを指す。現代になって私たちがなんとなく「落ち着く」・「居心地がいい」といわれている場所ほど、「心が綺麗な人々が過ごした場所」なのである。

私はサークルも辞め、ゼミも辞め、そしてバイトも辞め、ついに一人となってしまった時、自分の人付き合いの下手さに絶望し、一瞬死ぬことを考えた時期があった。本当に絶望したのだ。誰に対しても笑顔で、分け隔てなく接し誰からもそれなりに好かれる人が影でひとの悪口をいい、仲間を蹴落とす姿を幾度となく見てきた。自分の立場を利用して好き勝手にふるまう人も何度も見た。こんな腐った世の中で生きている自分を嫌悪した。

そんな時にたどり着いたのがこの鴨川である。おそらく汚れきった心を浄化するために必然的に訪れたのであろう。いや浄化というよりは心の交換といった方がいいかもしれない。

心の交換は急に行われるものではない。時間をかけて徐々に、部品交換のように行われていく。人間の心というものは一つしかなく、それを洗うことが出来ないと絶望から無になってしまう。魔法少女まどか☆マギカソウルジェムのように。

日が傾き始めた三条河原町の景色。約30分の蘇生で私は一度死に、生まれ変わった。新たな自分となった初めての景色は、それはまた絶景である。人が行きかう橋の風情は、どこか落ち着きを求める人で溢れている。そんな人たちを見ながら、私は優しい面持ちを見届けた。

絶望したところで私たちは何度も死ぬことが出来る。そして生まれ変わり、より頑丈な鉄心を構築する。長年にわたり、色々な思惑が交差し、人々の叫びが訴えかけるこの場所をあるかずして、京都を体感したというのは愚かである。

 

 

 

残酷な制裁~参拝の結果~

私は怒ってます。今日下鴨神社にお参りに行ってきたんです。住処から一番近い大きな神社なのでお参りしに行きました。五円玉を賽銭箱に入れて手をたたき、『今年もよろしくお願いします』と心で唱えながら誠心誠意お参りをしたのです。すると帰り道、突然とおなかが痛くなり、家に着くころには悪寒まで症状として表れ始め、一旦体温計で体調の経過を見ようと思ったのですが、、、、

おいおいおいおい、なんだよこの熱は!?完全に明日は病院行きじゃねえか!何か悪いことでもしたのか?全く心当たりがねえぞ!ちゃんと五円も入れたしレイ、二礼二拍一礼もやったぞ!俺の日頃の行いが悪いのか?
全く災難ですよ。これでインフルエンザなどと言われたら笑ってしまいます。まあせっかくなので日頃の行いとやらを見つめなおしてみようと思います。しかし、体調を回復させないと何もできないので明日は病院に行き、ベットで安静にしようと思います。

三箇日を避けて伏見稲荷へ ~初詣の独り言~

全く、人が多すぎます。正月の伏見稲荷は本当に人が多いです。特に三箇日なると写真のように身動きすら取れない状況に陥ります。今年は伏見稲荷に行ってきましたが、三箇日に行くのは気分が悪くなりそうなので、少し日を開けて一月七日に行ってきました。

 

京阪伏見稲荷駅から本社に続く道はやはり人が多いです。三日に神戸に行った時よりは少なかったですが、それでも歩行スピードを上げられません。

本社の鳥居前(JR稲荷駅前)です。本殿に向けて市が道の幅を狭め、正月の風物詩といわんばかりに主張を強めています。おかげでえっちらおっちらと足を痛めたかのようなスピードで歩くこととなりました。

朱色の三門が見えました。ここまで来るのに10分ほどかかりました。単純に気疲れしました。それでもこの山門を見ると初詣に向かての心構えを自然と心の中の自分が行うのです。本殿の写真は撮り逃してしまいました。本殿は幅が狭くないので、比較的回転良くお参りすることが出来ました。賽銭を入れる際、私は手元に500円玉しか持っておらず、しまったという表情を浮かべながらも、金色の輝く硬貨には何か縁があるのではという勝手な仮説を立て、今年の守り神の一つとして機能してもらうのと引き換えに500円玉は賽銭箱に吸い込まれていきました。私は願いを聞き入れてもらえてことを自分の中で仮認識し、そのまま千本鳥居へ向かうこととしました。

 

千本鳥居に入りました。しかし、何回来てもこの仰々しい鳥居の主張にはなれません。まるで神様の加護を受けているかのように見せかけて自分たちが偉大であると誇張しているかのような、そんな印象を受けます。信仰心の欠片欠片しかない印象を受けても人々はそのブランド物をひたすらに写真に収めます。インスタ映えでもしそうなので納得いくところですが、信仰という部分では明治神宮のように気を整備し、神域っぽくしてもらいたいところです。

しかしまあよくこんなに鳥居を置くことが出来るなあと思うばかりです。鳥居を置く作業と考えると重たい上にその作業を何回もしなくてはならないなんて、ねじ工場で不良品を見分ける単純作業が苦手な私にとって考えただけでも気が遠くなります。まあ、その作業をしてくださる人がいることで、多くの観光客を集客できているのでしょう。

山頂までは約一時間、往復で二時間ほどかかります。途中にお食事処があり、休憩することが出来ます。そして山頂からは、このような下々を見下すような景色を拝むことが出来ます。しかし、下々を見下ろして満足せずに右奥階段を登って一ノもお参りしてくださいね(笑)